アイウェアの立ち位置について。
アウトドアの魅力、魔力、その強さをひしひしと感じる。
山の遊びも海の遊びも、それこそここではとても書ききれないほどの遊びがあると思う(僕は海に関してはさっぱり何もわからない)が、僕は山に住んでいるので山について書く。
アイウェアを取り扱うに際し、改めてアイウェアに対して思うことをあれこれ考えていた。
アイウェアの持つ、外の世界と内の世界との間にあるある意味比喩的な立ち位置や、人間が山に生きる(住む ではない)上で認められた道具として立ち位置に、とても魅力を感じます。
で、なんでそんなことを考えていたかというと、今日は、
渓流釣りに一人で行っていました。
だって定休日だから。みつを。
すいません(誰に謝っているんだ)
いや真面目に。
川を見る。
しかし水面の反射で水中はほとんど見えない。
しかし渓流釣りを続けていると、水面の下が想像できるようになる。
この水流の下だけでも、何匹も魚がいる。
渓流魚は1年で10cm。2年で20cmになる。
ここは長野県根羽村。稲武の隣であり、うちから車で15分ほどの村だが、
冬は−10度を余裕でこえる時もあるだろう。
そんな中、渓流には魚がずっと生きている。
今日は25cmほどのアマゴが2匹、丸々と太っていた個体と、チビアマゴが5匹ほど、それらを見ることができた。
今回は食べないのでリリース。
釣り といえばそれまでだが、
渓流釣りをしなければ知らなかった山の世界を、僕は渓流釣りをして知ることができた。
ちなみに歴だけ長く、そこに腕前は比例しない。今年になって中級を名乗ることができるようになった気がする(当社比)
URBAN DEER Rin×RARTS スプルースグリーン
何度も言うが、フィールドにおいてはアイウェアがないと話にならないシーンがとても多い。
自転車においては、変速ギアのグレードがあーだのこーだのよりも、間違いなくアイウェアが重要だと思う。そう断言する。
前述した、アイウェアが持つそのメタファー的な、比喩的な立ち位置から考えると、
アイウェアを持っていることで、フィールドと向かい合っていると言える ような気がしてならない。
見えるなら、より見えたほうがいい。
どうにも日本(と言うか世間)ではアイウェアを纏う人は、どこか気取っている人のように捉われがちだが、そうではなく、
フィールドと向き合う姿勢でアイウェアを纏うのだ とそう捉えるようになったらいいのにな と思っている。
フィールドが好きな人こそ、必須です。
山に暮らすことを自ら選択したからこそ、山暮らしで得られる喜びは前のめりになってつかむ。
住む場所を自分で選択したならば、そこで楽しく暮らせるような動きを積極的にしてこそ、生きていると言える。
今日はこんな感じで。
では定休日明けの木曜日から、よろしくお願いします。
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