人間のニュートラルポジション。(田舎暮らし讃歌ではない)
今日は出生届を出した後にShin服部製作所さんへ受け取りに行っていました。
愛知県の右端から上端に行くルートであり、岐阜東濃エリアを経由する。
東濃の長閑な風景をドライブするのは、いつも心地いい。
店があり住んでいるエリアは岐阜県と長野県と隣接するエリアだが、それでも愛知県から岐阜県に入ると、雰囲気が変わることを肌と感覚で感じる。
それは岐阜県民の県民性に触れていることから感じるものでもある。
とにかく岐阜も長野も、人と土地ともに長閑である。
まぁ、愛知県民ほどのせっかちな性格の県民性(車での長旅の後に愛知県に戻ってくるととてもよく分かる、、)に普段から触れているからかもしれない。
もちろん僕は愛知県民だからこそ、その差を感じることができる。
昔北海道をバンで走っていた時に、愛知県民はとにかくせっかちであまり好きじゃないけど、君はなんかのんびりしてて、愛知県民っぽくなくていいね みたいなことを何度か酒を片手に言われた。
チクっと突かれた感じで全然褒められていないが、それほどまでに愛知のせっかちは定着しているようだ。
先日、うちの鶏のうち1羽が3ヶ月の幼鳥期を終え、ついに卵を産んだ。
それが嬉しくて嬉しくて、飼い主である土本は朝になると、卵を産んでないか小屋と畑を確認するだけでなく、昼にも辺りを確認してしまう始末。
もはや、卵の確認の仕方すら愛知県である。
僕の額にはうっすらと「愛知県」と書いてある。
↑1羽が毎日1個産んでいる。産んでいることに気づかず5日目にして気づいた土本。よって1日に5個卵をいただいた。初物なので近所にお裾分けもした。贔屓目でなく大きいし、贔屓目でなく美味しい。
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「目的を持って生きている生き物なんて人間くらいですよ」と、誰が言ったか忘れたが(確か山岳ガイドの人だった気がする)、僕は最近になって、この言葉が段々と好きになってきた。
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田舎暮らしと卵 となると、自給自足や「いただきます」の話になるだろう。
それは良く分かるし、うちの敷地内で元気に走り回ってクズ米や生ごみを食べて卵を産んでくれる鶏と暮らすことに、喜びを得ている。
しかしそれと同時に、鶏を生業にしている人がまた一人客を失った という文脈にも頷ける。
「自給自足!」「いただきますの意味!」と声高に叫ぶことに、少し躊躇いがある。
なんというか「自給自足」「いただきますの意味」にどっぷりと両足を入れ、疑う余地なくその看板を掲げるスタンスに、嘘っぽさを感じるようだ。
逆に、「自給自足なんてしないで経済を回せ!」と一点ばりの人にも違和感を感じる。
自分の見たい方向、見える方向しか見ていないというか。
自分の見たい方向しか見ない と言うのは往々にしてあるなぁと、かつての自分に対しても思う。
僕はかつて自転車という狭い業界の中でもそれを見てきたし、みなさんも色々といろんな場面で見てきたことだろう。
「一周回って小径車」「一周回ってクロモリ」「ロードが最強」「シルバー至上主義」
そしてそれは「いただきますの意味」だったり「自給自足」「そして「まずは経済回せ」だったりする。例えは他にもあるだろう。
正直言って、「自給自足」も「経済回せ」も両方大事だと思うのだが、どうだろう。
片方に寄ってしまうことは、
大海原に身一つで漂っていて、ようやく見つけた孤島の岸に上がった喜びもあるのだろう。
あるいは見つけた孤島が黒い海に比べるとあまりにも美しかったのかもしれない。(もっとも、美しい孤島はいくらでもあるだろう)
しかしみんな陸に生きているはずだ。
僕も孤島の岸に上がった喜び という感覚に浸る時もあった。
孤島と表現したものは、人の感じる閉塞感が生んだものなのだろう。
両方大事 だなんて、ダブルスタンダードと言われたり、あるいは卑怯なのだろうか。
僕は「陸に着地している」ものの表れじゃないか と思う。
「言い切りの言説には気をつけよう」と僕の好きな小説家が言っていたが、そこから10年、今「言い切り」が多すぎやしないか と思う。
まぁ、そういう孤島に人が集まりすぎているのだろう。
あまり結論のない表現ですが、あとは行間で感じてもらえたら幸いです。
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