安易な表現は人をどうするか。
だいぶ暖かくなってきました。朝晩は少し寒い(3度くらい)ですが、日中は15度を超えることもあり過ごしやすい気候です。家族4人で外でポカポカとできる貴重な季節。
我が家は2人の息子がおり、1人目はもうすぐ5歳。けん玉・あやとり・コマ・散歩・絵本少年です。うどんを打ったり餅米から餅を作ったり、けん玉はけん先以外の世界一周ができたり、2キロ歩いて祖父母の家に行ったり、毎日楽しそう。
2人目は7ヶ月。やわらかい”ひなた”の匂いがします。
文章を書くことで自身の考えをアウトプットする ということが自分を支えるものの一つとなっており、それゆえに些細な表現にも気を配ってブログを書いています。
ちょっとでも「ん?」と思った表現は書き直すし、書きながら何度も読み直して修正をしていく という感じで、このブログが大切な表現方法のうちの一つなのは今も変わりません。
しかし最近少し投稿回数が落ちているのは、ブログの題材の表現を「安易な表現」として書きたくなかったということと、安易なアウトプットをしたくなかった というわけです。
綺麗なことを「綺麗だ」と書いたり、
悲しいことを「悲しい」と書いたり、
楽しいことを「楽しい」と書くことはしたくない。
たとえ潔癖だと言われようが、どうしても自分が納得しない。
(ちなみに喋る時はそんな表現ばかりしている。元々人との会話が苦手だった部分を、接客仕事で自分なりに技術の習得をすることでカバーしてきたので、レスポンス早く返事をするために簡単なそれっぽい表現をして日々をこなしている。ただそれがうまくいっている実感は感じられないが、、、。)
そんなわけで、それっぽい安易な結論や、安易な表現というものが、たとえ他人が表現したものだとしてもどうしても気になって仕方がなくなってしまうくらい、今まで以上に潔癖になってきている。
しかし僕の尊敬する人が「悲しいことを”悲しい”と歌うJPOPが多いけど、なんだかなぁ」と言っているので、そこで僕は自分の潔癖性を肯定された気がして気が楽になっています。
「繋がり」「繋がる」
という表現は、アグレッシブな移住者や、思想を持った田舎暮らし推進者の中でよく使われている。
〇〇な繋がり、人と繋がろう。
「コミュニティづくり」とも表現がされます。
僕の(ある部分においての)潔癖症が邪魔をして、この表現の言い換え単語を考えている。要するに、好きになれない。
なんでかなぁ と、ここ1年くらいずーっと考えている。
ちなみに僕の好きな小説家(多分誰でも知ってる人)がエッセイで、友達がいないという読者からのメールに対して「友達なんて居なくてもいい。」と(かなり端折りますが)書いていて、そして友達作りたい人は「都合のいい人と友達になりたいだけ」ではないか と書いていて、これまた気が楽になっている。(昔の小説家は変わり者 というのは言わない約束です)
ちなみに僕にだって友達はそれなりにいるわけで、妻からするとどうしてこの人たちが僕と友達なのかよくわからないらしいのですが、それは幼馴染から始まる摩訶不思議な縁だったり、マスとちょっとうまくやれない者同士の偶然の出会いからの共感だったり、なんとなくピンとくるものだったりする。
要するに、友達になろう!と思って友達になるものでもないし、理由なんて明確にするのは野暮である。それらは全て「なんとなく」である。
そういう曖昧模糊なものに対して、明確な行動として「繋がろう!」と言われると、ちょっと、いやかなり引いてしまう。
「繋がり」という言葉が嫌いな人は、僕の周りには結構いる。
彼ら彼女らは、普通に友達は居るし、なんなら誰よりも後輩の面倒見がよく若年の人たちに慕われ、上から一目置かれている人だっていっぱいいる。
ということは、僕も含め「繋がり」が嫌いなわけではなくて、「繋がり」という表現が好きになれない ということではないか と、ようやく気づいたわけです。
「繋がろうよ!」と言われたり、それがたとえイベントの案内だとかのチラシだったとしても、その安易な表現がどうしても引っかかってしまう。
そして「全力で繋がり作り」ありきの人生やそのイベントの時間なんてまっぴら御免であり、そういうのは偶然だからいいんじゃないか と思っている。
極論ですが、「繋がろう!」と息巻いて集まってきている人がフロアの中にたくさんいるとしたら、その中に否が応でも入りたくない。
それよりもうちの近所のおじいちゃんおばあちゃんと話している時間の方がよっぽど楽しい。
それは元々は偶然の出会いであり、予想のつかない話になったり、時々会話にならなかったりする。そして”人それぞれだなぁ”なんて思う。僕のおじいちゃんは「人は人、自分は自分」とよく言っていた。
とまぁここまで書いておきながら、自分だって人が集まることたまにやってるじゃん とツッコミが入りそうですが、
僕は、「繋がり」とか「繋がろう」みたいなことを言ったことは無い。
そしてそういったものは、偶然がそれを作るから面白いのであって、偶然起こることに対して予めプログラムとして書くことはナンセンスである。
「美味しいと言おう!」饅頭の作り方講座 なんて講座、受けたいと思いますか。
書かないから、いいのです。
というわけで、「繋がり」「繋がる」「コミュニティ作り」 という表現、なんとかならないものかなぁ と思っています。
それは安易な表現であり、また安易な結論であり、そして前向きな人生に向けた「それっぽい言葉」である。
「安易な結論」や「それっぽい言葉」というのは、聞こえがいいし、取り付く島(いや、チープな浮き袋とでも表現しようか)として都合がいい。
1日の中で、人の真剣な話し合いの時間なんてものはたとえ長時間に及んだとしても集中力が保たなかったりするので、安易な結論に流れがちである。
特に地方創生の文脈の舞台である田舎では、課題(と表現したくはないが)や、背負うものが市街地よりも3つくらい多いので、安易な結論ばかりが飛び交うと気が滅入ってしまう。
またそれか。もうそういうのいいよ と思ってしまう。
「人が少ない」「政策がこちらを向いていない」「山や田んぼどうする」「文化が絶えそう」
そうした中でどうやって面白く生きてく?という議論を、安易な結論やそれっぽい結論を抜きにして考えたいし、議論がしたい。
そんな感じでずーっとモヤモヤしていましたが、ようやく表現ができて気分がいいです。表現したいことの8割はかけたかな??
で、明日ですが、
納品のため出張しています。終日臨時休業とさせていただきます。
20日の木曜日も所用のため休業とさせていただきまして、
次回のオープンは21日金曜日となります。
では21日から、よろしくお願いします。
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